2012.9.08-10 Dutch Harbor in Alaska

2012.9.08-10 Dutch Harbor in Alaska



ダッチハーバー(Dutch Harbor)は、アラスカ、アリューシャン列島の西側にあるウラナスカ島北部にある港である。1942年、太平洋戦争中、米国内においてハワイの真珠湾とともに日本帝国海軍の空襲を受けた場所のひとつである。当時、潜水艦の基地があった。現在は、ベーリング海を漁場とする漁船の重要な基地であり、重要な水産業の町である。アマカナック島の西側には、南西方向に延びる長い砂州があり、ベーリング海からの波浪の侵入を防ぐ天然の良港になっている。


大きな地図で見る


我が船は、名古屋港で軽油を満載し、2012年9月8日、10日間の平穏な航海を経てダッチハーバーに入港しコンテナ岸壁に着岸する。岸壁から見える周囲の山々には、樹木がなく草が生え美しい景色だ。まずは税関と入国管理官による検査が行われる。テロ対策のため検査は厳しく、全員が船の事務室に集められ、船内のサーチが行われ、不審者が隠れていないか検査される。その後、乗組員一人一人の顔がパスポートと相違ないか検査される。現地代理店からは、二人のフィリピン系アメリカ人女性が本船に乗船する。訛りがほとんどない流暢な米国英語を話す。もちろんタガログ語も話せるので、フィリピン人乗組員は彼女たちから町の情報を聞いている。とても明るく親切だ。

入港手続きの後、厳格で知られる米国沿岸警備隊(US Coast Guard)のTVE(Tank Vessel Examination)という、タンカー船が初めて入港する米国の港で受けなければならない検査を受ける。担当の二人の若いオフィサーはとて友好的で、乗組員のきびきびとした対応もあり、何の指摘事項もなく無事に検査を終える。翌日、代理店の女性が運転する4WDの車に乗って、他のフィリピン人乗組員とともに町に行くことにする。町の端にあるスーパーマーケットの前に着き車を降りる。近くの小奇麗なパソコンショップ兼文具店に立ち寄る。フィリピン人乗組員は、家族と連絡手段としてアイフォンやパソコンに興味がある。一人でそこを出て、集落のある方向に砂ぼこりの舞う広い道を歩いていく。途中博物館のような建物があったが、今日は休日で閉館している。魚の加工場ような建物を過ぎ更に歩いて行く。走っている車は、大型の4WDばかりだ。冬は本当に凍えることだろう。戦時中、潜水艦の基地があった小さな入り江沿いの道を歩く。入り江のそばには、当時の状況を説明する詳細な案内板がある。入り江の中には小さな島(今ではAmakank島とつながった半島)がありExpedition島という名がついているようだ。

案内板(下の写真)には以下のことが記してあった。
1840年頃、ロシアの神父イワノ・ベニアミノブはExpedition島に苗木を持ってきた。若木は、アラスカのシトカ島の北の森林地帯から持ってきたスプルース(トウヒ)であった。ベニアミノブは、それらがストーブの薪や造船用の強い白木の材料となるような森林に育つことを望んだ。シトカにある苗木の親は高さ60m、幹の太さが1.5mにも達する。その木材はマストや円材として珍重される。しかしExpedition島のベニアミノブが植えた木は生育不全のままであった。それは、悪い土壌、太陽を覆い隠す雲、猛烈な風が重なるというアリューシャンの環境による。160年以上の間それらの小型の木は、Expedition島にしぶとく生き続けた。移植するということは、生きるため環境に合わせ、障害を乗り越えアリューシャンに適合しなければならないということの鮮烈なしるしとなった。

プレジャーアイランド(快楽の島)
1940年の9月初旬、59人の民間建設労働者ウラナスカ村に到着する。その労働者達は、彼ら自身のための宿泊所を一緒に建て、それからアマカナック島に辺境の軍事基地を建て始める。6ヶ月後、労働者は430人に達する。多くの労働者は、北緯48度以南の遠くの場所からやって来た。彼らの郷愁は、その場所の荒々しい美人にかき消された。到着するどの労働者も、島の南に消えうせる。家族や女性に会いたいことで悩んでいる者・・・。ブラッツキー(Blackies)というウラナスカのバーは、グラス1杯50セントのウイスキーで慰めを提供する。もうひとつの50セントで、ウラナスカ村からイリウリック港を横切りExpedition島に手漕ぎ船で渡るための船賃になった。島には小さな波止場があり、哀愁漂うスプルースの木が立ち、2階建ての木造家屋に5人の商売女とおかみがいる。プレジャーアイランドでの商売は活発である。・・・・・・・

1942年1月27日S級潜水艦S−23がアマカナック島の海軍の桟橋が横付けした。氷が着いた甲板には、防水の防寒着やスキーマスク身に着けた乗組員で込み合っている。其の後10年間、これらの潜水艦は、南の太平洋での暖かい海域でパトロールを行っていた。・・・・

丹沢山
Expedition島の歴史が書かれた案内板

等々、ダッチハーバーの歴史が詳しく書いてある。小説のような難解な英文があり英語力不足の自分には理解できない部分がある 。

アマカナック島からウラナスカ島に渡る橋を通過する。周囲の湾内にはトロール漁船が停泊している。なだらかな起伏を越えしばらく歩いていくと、記念碑のある小さな丘に着く。良く調べなかったので、記念碑が誰のものであるか分からない。イヌイットのものかもしれない。ウラナスカの小さな町とその向こう側に、荷役中の我が船が見える。町の外れの小川の傍には、印象的なロシア風の協会がある。美しい風景だ。かなりの距離を歩いてきたので、来た道を引き返すことにする。街の端にあるホテルのバーでバドワイザーを飲む。フィリピン人系らしきお客が大きな皿に盛られた食べきれないほどの量のフライドポテトと大きなハンバーガーを食べている。さすがアメリカは豪快だ。スーパーマーケットで食料を買い込み船にもどる。

陸上タンクが一杯になったので、揚荷役を中断、一旦コンテナ岸壁を離れ港外に出ることになった。9月10日、船は岸壁を離れ穏やかな海を走り湾外に出る。左に見えるアマカナック島に目立つ山があり、登頂意欲をそそられる。ダッチハーバーには、残りの積荷を揚げるため再び入港することになっているので、その時登ることにしよう。次回入港が楽しみだ・・・。船は、ダッチハーバー沖60海里の場所で、エンジンを止め漂白を始める。




丹沢山
コンテナ岸壁に着岸する。ダッチハーバーの港口方向を見る。
丹沢山
コンテナ岸壁の東側の風景
丹沢山
ウラナスカ村の方向を見る。
丹沢山
フィリピン人乗組員と一緒に上陸する。久しぶりの上陸で皆嬉しそう。
丹沢山
コンテナ岸壁に着岸する本船

丹沢山
コンテナバースのコンテナ群・中には魚介類が入っているのだろうか。
丹沢山
スーパーマーケットの前で車を降りる。
丹沢山
街の端にあるホテル・帰りにビールを飲む。
丹沢山
魚の加工場のような建物のそばを通る。

丹沢山
対岸の半島はExpedition島と呼ばれる。太平洋戦争の頃、潜水艦の基地があった。
丹沢山
ウラナスカ村の丘からダッチハーバーの湾を望む。荷役中の本船が見える

丹沢山
丘の上の記念碑
丹沢山
ロシア風の教会
丹沢山
港内にはトロール漁船が行き交う。
丹沢山
コンテナ岸壁に着く本船

丹沢山
コンテナ岸壁から南側を見る。
丹沢山
ダッチハーバーの朝陽・船は揚荷を途中で止め、間もなく出港だ。
丹沢山
港外60海里沖のベーリング海で漂泊を始める。


■ HOMEへ戻る

総合登山記録  山口県の山  中国百名山 九州百名山  四国百名山  日本百名山   関東の山 南アルプス 屋久島縦走    
航海記録  旅の記録  海の風景・ギャラリー  沖縄  山で見た花

Copyright(c)2014 軽きゃんぱー里山放浪記. all right reserved.